麻賀多神社(佐倉総鎮守)

■鏑木 麻賀多神社 (佐倉市宮小路)

麻賀多神社鳥居と拝殿
麻賀多神社鳥居と拝殿
  1. 麻賀多神社は鏑木村の村社以来、佐倉地域の鎮守の神として歴代城主の崇敬があつかった。御祭神は稚産霊命(わかむすびのみこと)である。元々は鏑木村の鎮守であったが、佐倉城の大手門近くに位置することから城域鎮護の神とされ佐倉総鎮守となった。
  2. 明治2年の火災で古文書類が焼失してしまい創立年代等は不詳であるが、江戸時代以前から存在していたのは確実である。江戸時代には代々の佐倉城主や家臣にも崇敬され、現在の社殿は藩主堀田正睦によって天保14年(1843)に造営され、周囲の石垣は最後の藩主堀田正倫によって築造された。
  3. 現在の鳥居は昭和になって新たに造られたものであるが、天明5年(1785)に奉納された鳥居の額束は別に保存されている。
  4. 旧印旛郡内には、「麻賀多」を社名にする神社が18社あり、これを称して「麻賀多十八社」と呼ばれ、佐倉市に11社、成田市、酒々井町、富里市に夫々2社、八千代市に1社の分社が存在しており、これらは全て印旛沼の東岸か南岸に鎮座している。
  5. 祭神は全て雅産霊命であることから、麻賀多神社のある地区は、古代同一氏族の居住地であったと推定され、一族が住んだ所に分祀して祀った氏神様であったいえる。
  6. 社宝に県指定文化財を始め市指定文化財が数点ある。また、この宮小路にあるの麻賀多神社は、文化勲章受章者の鋳金家〈香取秀真〉が、少年期を宮司・郡司秀綱の養子として過ごした地でもある。

【御祭神】

 宮小路にある麻賀多神社は佐倉の総鎮守で、古くから「まかたさま」と、地域の人々から親しまれ、崇敬されてきた由緒あるお社です。

祀られている神様は、我が国のもっとも古い書物、歴史書である古事記には「和久産巣日神」(わこむすびかみ)、日本書紀には「雅産霊命」(わかむすびのみこと)と見える名前の神様で、この雅産霊命は、伊勢外宮の「豊受姫命」の御親神となられる神様です。

名前の「和久」・「雅」は、ともに若いとか、幼いという意味で、「産巣日」「産霊」は、形成する、完成するの意味になり、若い、幼いものもを育て上げるという御神徳を表しており、人、作物、事業の生成、発展を守護される神様とされています。


【麻賀多神社の縁起】

麻賀多神社(船形)の鳥居と本殿
麻賀多神社(船形)の鳥居と本殿
  1. 今から約1050年ほども前に完成した当時の政令というべき「延喜式」には、下総の国の項に、この「麻賀多神社」の社名が記載されており、当時すでに中央にまで知られていた神社であることがわかります。
  2. 麻賀多を「まかた」と称えることについては、あまりにも古い神社なので今では定かでなく、従来、徳川時代から現在まで、「勾玉」(まがたま)、「麻縣」(まあがた)からとか、その他にもいくつかの推説や伝えがあります。

  3. 5世紀前後、印波国(旧印旛郡一帯)の初代国造となった伊都許利命(いつこりのみこと)は、神武天皇の皇子「神八井耳命」の八代目の御孫で、応神天皇の命を受けて印旛国造としてこの地方を平定し、産業の指導などに多くの功績を残したといわれています。
  4. その昔、日本武尊東征の折、大木の虚に鏡をかけ、根元に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願された。伊都許利命は、「この鏡を崇め祀れば長く豊作が続く」との教えを聞き、その鏡を御神体としてこの地に「雅日霊命」を祀り、一社を創建し「麻賀多真大神」と称したのが始まりだとされています。 この社が現在の成田市船形にある奥宮といわれる社で、今は麻賀多神社の総社ともいわれています。
  5. その後、伊都許利命7代の孫が、推古天皇の時代(698年頃)に稷山(あわやま)の地(台方)に雅産霊命を遷痤して本社と称し、ここに二つの麻賀多真大神ができた。
  6. しかし、朝廷の宝物である三種の神器の一つ、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)と同音であることを遠慮して、麻賀多神社に改名したと言われている。延喜式神名帳に、「印旛郡一座 麻賀多神社」とある郷社は、この船形と台方の両者をセットにしたものを指していると考えられています。

■麻賀多神社由緒の補足

『初めは、麻賀多神社は「あさがおおいやしろ」と呼ばれていたが、後に、何時の頃からか、現在のように「まかたじんじゃ」という呼び方に変わった』 という説を紹介しておきます。

  1. 「あさがおおいやしろ」と呼ばれたとする根拠は、「麻」は、古くは『ふさ』と読み、下総・上総の「総=ふさ」と同意語で、この房総の地は「ふさの国」と呼ばれていました。
  2. 多神社(おおいやしろ)とするのは、日本の上代においては、国・郡が定められ、それぞれその長官として国造(くにみゃっこ)が任命され、印波(今の印旛)の初代国造には、神八井耳命(かんやいみみのみこと)八世孫・伊都許利命が任命された。神八井耳命は別名「弥志理都比古命(やしりつひこのみこと)」といわれ、「多臣(おおのおみ)」の祖神として祀られていることから、その孫である伊都許利命は、当然「多氏族(おおうじぞく)」の人物であるとされている。(詳細説明は省略)
  3. 上代の各氏族は、それぞれに氏の神(祖先神)を祀って共同社会を形成していたことかあら、この印旛地方に住んだ伊都許利命をはじめとする「多氏族」も、当然適地を選び氏の神を祀り、その神社を「多神社(おおのやしろ)」と呼び、麻の国にあるので「麻賀多神社(あさがおおいやしろ)」と称した。』という説です。


■船形 麻賀多神社と伊都許利命の墳墓

18麻賀多神社の所在地

佐倉市  佐倉地区  ①鏑木町 ②大蛇町 ③岩名 ④大佐倉 ⑤飯田 ⑥飯野

臼井地区 ⑦江原新田

根壕地区 ⑧太田  ⑨城  ⑩高崎  ⑪大篠塚

成田市          ⑫台方  ⑬船形

酒々井町         ⑭新堀  ⑮下台

富里市          ⑯新橋  ⑰中沢

八千代市         ⑱神野

麻賀多神社の神輿

麻賀多神社の大神輿
麻賀多神社の大神輿
  1. 1710年代頃の佐倉城下町の様子が記された〈古今佐倉真佐子〉によれば、当時の佐倉藩主稲葉正知が、享保8年(1723)に山城国淀(現京都府)転封前に、稲葉家中の藩士と町方の氏子の協力により代金300両で、それまであった神輿の代わりに新造したものが、現在保存されている神輿である。
  2. 製作に際しては、江戸から職人10余人が勝蔵院不動堂で全体の骨組みを行い、飾り職人が薬師堂前に小屋掛けをして作業に当たり、完成に約7ヶ月を要したと言われている。
  3. 大きさは以前の神輿より一回り大きく、台輪が1、47m、屋蓋が方1、65m、高さが1、94mある。形は江戸深川の永代寺八幡の神輿を模した古様を残したものとなっている。
  4. 今の神輿はおおよそ290歳ということになる。この新しい神輿ができたことにより、従来の神輿は六崎の麻賀多神社に払い下げられた。六崎に払い下げられた神輿はおおよそ340年前につくられたものと言われ、平成14年の時代祭の時には、鏑木の麻賀多神社に里帰りして新旧の神輿が再会した。


佐倉藩主堀田正愛公御着の甲冑

紫裾濃胴丸の甲冑
紫裾濃胴丸の甲冑
  1. 麻賀多神社には紫裾濃胴丸(むらさきすそごどうまる)の甲冑一領が保管されている。この甲冑には、幕末の甲冑制作者〈増田明珍頼母介宗家〉の折紙(鑑定書)と、それに収められている木箱がある。木箱の蓋には『正愛公御着具紫裾濃胴丸折紙』と表書きされ、その裏には「御銅丸一領文化十四年出来」と記されている。佐倉藩主堀田正愛は寛政11年(1799)出生、文政8年(1825)没。
  2. この胴丸は、鎌倉時代末期から室町時代に至る明珍家の一族が制作した各部分を集めて修復したもので、その修復においては堀田氏の家紋を裾金物等に配しており、また紫裾濃に統一して一領の甲冑に仕立て上げたものである。

☑麻賀多神社境内の三角点標識

ところで、麻賀多神社境内に国土地理院の3級三角点標識があるのを御存知でしょうか。データだけを紹介しておきます。

緯度・・・・・35°43′09″.4933

経度・・・・・140°13′35″.7998

標高・・・・・31.32m

■本佐倉城《中世城郭》跡

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