佐倉順天堂

■佐倉順天堂とは

順天堂記念館入口の冠木門
順天堂記念館入口の冠木門

 佐倉順天堂は、長崎に遊学後江戸に蘭学塾を開いていた佐藤泰然が、時の佐倉藩主堀田正睦の招きにより、天保14年(1843年)、佐倉の地に『蘭医学塾「順天堂」』を開いたのが始まりである。

 当初、佐藤泰然が医学塾を開設した場所は、旧佐倉城下町を形成する台地上を東西に走る成田街道の本町地区の道路北側であったが、安政5年(1858)には通りの南側の現在地に移転している。

 現在の順天堂記念館は、通りに面した和風の主屋と、その南に連続した洋風の付属室からなる木造平屋建て瓦葺きの建物であるが、明治初期の順天堂は現在の建物以外にも、病院棟や院長宅など多くの建物がそろっていた。

◇間口22間、奥行き50間の約1100坪あった。

◇現在の記念館は敷地面積822㎡、建物床面積205㎡である。

 

 順天堂では、玄関8畳間の鴨居に扁額 『順天堂』 が掲げてあったが、「順天」とは、中国の古書に見られる儒者の常套句で「天の道に順う」、つまり自然の理に従うという意味で、泰然は、医者として、人間として最も大切なことと考えたからである。

 この額は小葭外史(こあしがいし)≪姫路藩医者で儒者の山田安朴≫が揮毫したもので、「癸卯初冬」と年号が記されていることから、順天堂は天保14年10月頃に開設されたといえる。

 

 旧佐倉順天堂は昭和50年に千葉県の指定史跡に認定され、建物の修復とともに平成60年から『順天堂記念館』として一般公開された。しかし建物の老朽化が進んだため、平成11年から13年にかけて再び修復整備が施され、平成13年10月2日から再公開を行っている。

 

■佐倉順天堂の特徴

主屋と玄関部分
主屋と玄関部分

1.佐藤泰然の創設した順天堂は、病院として高度の外科手術や種痘など、新しい医療を積極的に取り入れるとともに、併設した塾でオランダ医学と蘭語を教えた。

 

2.特徴はオランダの書物から得た最新の西洋医学の知識のもとに、当時としては極めて大胆に西洋医術を実地に応用し成功させたことで、華岡青洲流の全身麻酔による薬害を良とせず、洋式に無麻酔で外科手術を行った。 同時に治療のかたわら医学教育も行い、西の緒方洪庵塾(適塾)と並び称されるほどの存在になった。

 大阪の緒方洪庵塾は単なる医師の養成所ではなく、洋学者の育成を重要視し、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎など、すぐれた人物が学ん だ。これに対し順天堂は、医学の「学理」と「教科書は患者にあり」として、医学の実地教育に力を注いだ。

 

【華岡青洲】

京で医術を学んだあと紀州藩に帰り開業。薬草採集・調合に没頭し、文化元年(1804)には欧米より早く全身麻酔による乳がん手術に成功。このニュースが全国に伝わり、病人が押しかけるようになり、門人も大勢が花岡塾で学んだ。

 

3.泰然の口癖は、常に「医者は公だ」というもので、医療を立身出世や金儲けの手段にすることを嫌った。又、医業を同族で固めることなく、後継者は弟子の中で一番適した人物を養子にして継がせた。泰然のこの考え方は次の代にも受け継がれていった。

 

4.二代目佐藤尚中は、順天堂をますます充実させる一方、慶応3年(1867)には近代的西洋病院「佐倉養生所」を、今の佐倉麻賀多神社前に創設した。近代的西洋病院を長崎以外で最初に開設したのは佐倉という事もあって、この事が『西の長崎、東の佐倉』の語源になったとも言われている。

 

5.泰然と尚中の二人が揃って活躍した幕末の順天堂は、オランダ医学の講義と実地医療が合わせて行われ、特に優れた外科手術は当時の最先端を行くもので、その名声に全国から門人が集まった。

 臨床を学ぶ者、蘭学を学ぶ者、医学一般を学ぶ者というように、塾生が全国から集まり、幕末から明治にかけてその延べ人数は1000人余といわれている。

 

6.尚中の代になって東京にも順天堂を創設し、順天堂は佐倉順天堂と東京順天堂が存在する事になり、東京順天堂が現在の順天堂大学に発展していったのである。

 佐倉順天堂は戦後一時閉鎖された時代もあったが、現在は順天堂記念館隣の順天堂医院に引き継がれている。

 

【漢方と蘭方】

江戸時代の医学の主流は漢方医学であった。漢方医学では死者を冒涜しないように人体を知るための解剖は行わなかった。そのために身体の仕組みを概念的に捉えるようになり、治療の方法も経験を重視して病状を軽減する事を目指した。

一方蘭方医学は、人体の構造やその仕組みの把握に努め、その為病気が発症するとその原因を突き止め、身体の異常個所を正常に戻す治療を行った。

このように漢方、蘭方の身体観の違いが治療の応用に大きく影響を与えたといえる。

 

■順天堂の祖・佐藤泰然

佐藤泰然の肖像画
佐藤泰然の肖像画

1.佐藤泰然は、出羽国鳥海山の麓・遊佐町『(庄内藩)現山形県』出身で、江戸で公事師をやっていた佐藤藤佐(とうすけ)の長男として、文化元年(1804)武蔵国川崎在の稲毛(現川崎市)で生まれた。初めは父の仕事を手伝っていたが、天保元年(1830)27歳の時に医術を学ぶ事を決心し、最初は江戸で安達長雋(あだちちょうしゅん)について学んでいたが、天保6年(1835)に蘭医学を原書で学ぶことを決意して長崎に3年間遊学した。  

                                 

2.天保9年(1838)に長崎での医学遊学を終えた泰然は、江戸両国橋たもとの薬研堀(現中央区)に、最新の外科医療を施し、同時にオランダ語も学べる「和田塾」(母方の名をとって和田塾と命名)を開いた。

   

3.その後、泰然はわずか5年で江戸を引き払って佐倉に移住する事にしたが、その理由の一つとされるのが、当時の佐倉藩主堀田正睦を始め渡辺弥一兵衛など、佐倉には洋学を理解する有力者がいたことや、天保の改革の実施でより文武芸術振興の素地を佐倉に見出したからであったといわれる。 

  

 【渡辺弥一兵衛】

物事に精通し、かつ誠実無比で解明的センスを持った当時の城代家老で、藩主堀田正睦のよき理解者だった。背中にできた瘍を、古来漢方医学で施すに術もなく苦しむ一方であったものを、新米の蘭方医が一刀の下にさっぱりと苦しみを取り払ってくれた。この外科手術の冴えに感動した治は、西洋文化の優秀な事を知り、以来すっかり蘭方医信者になった。藩政の中で、教育や兵制にも西洋文化を取り入れ、正睦が蘭癖と言われた解明君主になる素地を作った人物。  

 

4.佐倉に来た泰然は城下町東の本町の地に塾を開き、この時【順天堂】の堂号を初めて称し扁額にして掲げた。この額は姫路藩藩医で儒者の小葭外史(こあしがいし)が揮毫したものである。

 

5.泰然は順天堂を継ぐ者は必ずしも実子の必要はなく、優秀な後継者を得ることのほうが大切であると考え、「最もふさわしい人物を後継者にすべき」との考えのもと、江戸で和田塾を開いた時からの門人で、佐倉に招かれるときにも一緒だった山口舜海(後の佐藤尚中)を、彼の医学に取り組む態度や、手術の知識・技術などを高く評価し、嘉永6年(1853)に養子とするとともに自分の後継者に決めた。

 

6.佐藤泰然の功績

(1)蘭医の先覚者

(2)順天堂の設立

(3)日本を代表する英才を育てた

(4)堀田正睦を助けて国政にも参画した 

 

鴨居に掲げられた療治定
鴨居に掲げられた療治定

7.佐倉順天堂では江戸の和田塾のときと同じく、塾生の教育と実地医療としての外科手術に腕をふるった。当時の順天堂では、万一の危険性を考慮し、手術に際して麻酔薬は使わなかった。また、高弟の関寛齊の手になる「順天堂外科実験」や「療治定」に記された手術名などからも、如何に高度な外科治療が行われていたかが推察できる。

 

【無麻酔による外科手術】 

この頃はまだ麻酔による療法は確立されていなかったが、泰然は、「病人は自分の命のためには一時的な激痛にも耐えなければならない」と考えており、難しいといわれていた大きな手術を次々と行い成功させた。これらによって泰然の名は一層知られるようになり、嘉永6年(1853)には功績が認められ佐倉藩士(藩医)にも取り立てられた。

  

8.泰然と尚中の二人が揃って活躍した幕末の順天堂は、オランダ医学の講義と実地医療が合わせて行われ、病院として高度の外科手術や種痘等の新しい医療を積極的に取り入れるとともに、併設した塾でオランダ医学と蘭語を教えた。特に外科手術は当時の最先端をいくもので、その名声に全国から門人が集まったといわれる。

 

9.佐倉順天堂は安政5年(1858)に新しい建物に移転しているが、その新しい建物の棟札は佐藤尚中(泰然の養子)が作っていることから、この時期の順天堂の経営は、実質的には二代目となった尚中に移っていたと思われる。

 

 

■泰然後の順天堂と佐藤尚中

二代目堂主佐藤尚中
二代目堂主佐藤尚中

1.佐藤尚中は小見川藩医の家に生まれ、医師を志し江戸に出て安藤文沢に師事して西洋医学を学び、その後佐藤泰然の開いた和田塾に入門した。そして、泰然が佐倉に招かれるのに従って佐倉に移り、順天堂の外科医として医療に当たるとともに大勢の塾生に蘭学と医学を指導した。

2.尚中は万延元年(1859)長崎に遊学しオランダ人医師ポンぺに師事し、科学を基礎とする西洋医学を学んだ。尚中の医術は優秀で、ポンぺは、彼の手術は「正確・快速・沈着」と最大級で褒めた。

3.佐倉に帰った後、ポンぺから学んだように医学を体系的に分かりやすく教えるなどして尚中の評判は高まり、順天堂の名は日本中に知られるようになって塾生も全国各地から集まってきた。

 尚中は順天堂をますます充実させる一方、佐倉藩の漢方廃止など思い切った医制改革を推進し、慶応3年(1867)には官製の近代的西洋病院「佐倉養生所」を設立した。

 

5.日本の蘭方外科医の最高峰を極めた尚中は、明治2年(1869)に明治政府に招かれ大学東校(現東京大学医学部)を主宰した。この時の教授陣27名中20名が佐倉順天堂関係者であった。

 

6.尚中は、「大学大丞兼大学大博士大典医」の要職に就いたが、明治5年にその職を辞し、翌年には東京湯島に順天堂医院(現順天堂大学付属順天堂医院)を開いた。

 順天堂大学お茶の水キャンパスでは、「病院」ではなく、「医院」の名称をいまだ堅持している。これは≪大勢の病める人々を治療する所は、病院ではなく医院と呼ぶのが正しい≫という尚中の遺志を受け継いだものとされている。このように、尚中は明治になってからは中央(東京)で活躍する事が多く、佐倉順天堂は三代目佐藤舜海が守った。

 

■■順天堂記念館 内部の展示と見どころ

■下記のような事項も考えなが順天堂記念館を見学するのも良いと思います。  

  1. 150年前の日本の医学水準と現在の医学の比較・・・。
  2. 佐藤泰然の出生と医学を志すきっかけは・・・。
  3. 佐藤泰然が蘭医学塾順天堂を佐倉に開設した背景・・・。
  4. 佐藤泰然の四つの功績について・・・。
  5. 漢方と蘭方の基本的な相違は何か・・・。
  6. 日本の医学システムがドイツ方式になった経緯は・・・。
  7. 佐倉藩が西洋医学を積極的に導入した訳は・・・。
  8. 門人は大きく三つのカテゴリーに大別できる・・・。
  9. 順天堂の後継者はどのような考えで決められていたか・・・。
  10. 麻酔薬で大手術ができた背景に何が考えられるか・・・。
  11. 天然痘はどんな病気だったのか、佐倉で天然痘の予防接種が行われたのは・・・。
  12. 療冶定(治療代金)の「疋」の単位について・・・。
  13. 病人宿への往診と佐倉順天堂の病棟・・・。
  14. 日本の西洋医学発展に貢献したオランダ人シーボルトとポンぺ・・・。

  終わり

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