本佐倉城跡近辺の古刹・史跡

■常奯山勝胤寺(じょうかつさんしょういんじ)

常奯山勝胤寺
常奯山勝胤寺
  1. 常奯山勝胤寺は、釈迦如来を本尊とする曹洞宗の寺院で、享録元年(1528)本佐倉城主千葉勝胤が創建したと伝えられ、山号は勝胤の法号「常奯」に由来している。≪勝胤の法名は「月峯常奯基阿弥陀仏」≫
  2. 文禄元年(1592)に徳川家康によって寺領20石を与えられているが、検地帳の記載では、山門、客殿、祖師堂、方丈、庫裡、鐘楼、回廊、地蔵堂、鎮守社など、かなり大規模な寺域だった事が伺える。また、明治維新までは禅宗寺院の修行道場として、最盛期には60名前後もの修行僧が研鑽を積んでいたようで、寛政2年(1790)の境内絵図によると26,312坪という数字がみられる。
  3. 庭内にある「千葉水」と呼ばれる湧水は勝胤が愛飲したとも伝えられ、重物として遣わされた物の一部や菓子器の欠片等から、勝胤が茶道にも心がけていた事が伺える。更に、寺宝として「千葉石」なる石が保存されているが、この石については諸説あり、最も信憑性があるといわれるのが「千葉伝考記」に記載がある「寛文12年(1672)『千葉介平正胤の名で千葉石を奉納した』という記述ではなかろうか。
  4. 本堂裏(山側)には中世に造立された石塔が数多く残されている。戦国時代の五輪塔や宝篋印塔であるが、本佐倉城主7代千葉胤冨の五輪塔や、8代千葉邦胤と邦胤室の宝篋印塔等が確認される。

 

■大櫻山宝珠院(おおさくらさんほうじゅいん)

宝珠院大師堂
宝珠院大師堂
  1. 大櫻山宝珠寺は真言宗智山派の寺院で本尊は「大日如来」である。開山は不詳であるが、同寺に焼け残った扁額等の記述から、永徳3年(1383)が開基あるいは中興といわれている。境内の東側から北側には印旛沼が観望される最高地にあって、本佐倉城千葉家の祈願所として由緒を残している。
  2. 享保9年(1724)の火災で本堂や阿弥陀堂が焼失したが、焼失した阿弥陀堂は、明応2年(1493)に本佐倉城主千葉勝胤が建立したといわれている。
  3. 当寺は将門山にある八幡神社や口の宮神社等の別当寺を務め、宝珠院文書には、本佐倉城主千葉胤冨が宝珠院に宛てた、「八幡神社、将門大明神、宣言(浅間)神社を修理しなさい、そのための費用2貫5百文を渡す』という記載がある。
  4. 徳川家康から御朱印20石、また佐倉藩堀田家の所録の寺院として将門山に8丁歩の寺領を拝領している。江戸時代の隆盛期には佐倉五ヶ寺の筆頭として12ヶ本寺、120余の門末の寺院が会下におかれた。また当寺は、法灯の壇林寺院として下総真言宗の教育道場としても栄えた歴史がある。

 

■将門山の史跡

現在の佐倉市将門町辺り全体を将門山と呼んでいるが、将門山というからには平将門と何か関係があるのか興味はあるが、それを裏付けるものは何もない。ただ、伝承の上では千葉氏との関係を媒介していろんな結びつきが言われている。

 一方、幕末になると、幕府が参勤交代制度を緩めたこともあって、所藩の江戸詰武士が江戸を引き上げることになり、佐倉藩ではその影響で武家屋敷の確保がこの将門山にも行われた。

 

堀田正信が寄進した鳥居
堀田正信が寄進した鳥居

【将門三社】

  1. 戦国時代以来、当地には妙見宮(奥の宮)、将門山大明神(中の宮)、日枝山王社(口の宮)があり、これらを「将門三社」と呼んで村内の真言宗宝珠院が別当を務めていた。妙見宮は千葉氏の氏神として、将門山大明神には平将門を祭っており、口の宮は佐倉惣五郎を祭っていた。
  2. 将門山大明神には新旧があって、旧社は年代は不詳であるが戦国時代に千葉氏によって建立されたといわれ、新社のほうは承応3年(1654)、佐倉藩主堀田正信の家臣植松雪斎が建立した。以来、平将門の霊を祀る新旧の将門山大明神が、100mほど離れた場所に存在する事になったが、享保年代に佐倉城主だった松平(大給)乗邑が、旧社の中の宮を修復するとともに、植松氏建立の新社は廃祠にした。
  3. 現在の口の宮神社前にある鳥居は、承応3年(1654)、時の佐倉藩主堀田正信により造立された鳥居で、高さ3,29mの神明型鳥居で、家臣植松雪斎が新規に将門山大明神(新社)を建立し、この神社のために正信が寄進したものである。右柱に、「奉寄進石乃華表 将門山大明神 承応三年甲午天十一日」、左柱に、「佐倉乃城主従五位下 堀田上野介紀朝臣正信」と刻まれている。
  4. 妙見宮と新旧の将門山大明神の存在した跡は、今は林や畑地になっていたり民家が建っており、この鳥居以外の遺構は何も残っていない。
  5. 神仏習合や神仏分離の影響を色々受けてきた口の宮神社であったが、大正8年に本殿・拝殿ともに焼失し、現在の建物はは平成13年に「将門・口の宮神社」として建立されたものである。
桔梗塚の碑
桔梗塚の碑

【桔梗塚】

  1. 将門山にはやはりと言うか「不咲桔梗伝説」があり、桔梗塚の石碑も建てられている。 ≪花もなく しげれる草の 桔梗こそ いつの時世に 花の咲くらむ≫
  2. 伝承の一つを紹介すると以下のようである。「桔梗」は香取郡佐原の長者の娘であったが、将門の寵を得て将門の愛妾に召し寄せられたとされているが、実は敵将藤原秀郷の間者であったともいわれる。将門には7人の影武者がおり秀郷には区別がつかない。密かに桔梗に聞くと、「影武者は藁人形だから、冬の朝吐く息が白いのが将門である」と教えた。これによって秀郷は将門を討つ事ができた。将門は裏切られた事を知り、「桔梗咲くな」と呪いの言葉を吐いて死んだという。以後、桔梗の墓の周りに桔梗花は咲かなくなったという「不咲桔梗伝説」の発祥になっている。

■本佐倉城(跡)歴史ガイド 

 □ 7名以上の団体

 □ 出発は大佐倉駅前

 □ コース・散策時間は調整可