佐倉城下の武家屋敷

武家屋敷の概要

 佐倉城築城時の藩主・土井利勝の城下町づくりは、武士が住む武家屋敷と商人などが住む町屋が計画的に分けられた。

 武家屋敷は城内の曲輪や、城外各箇所の広範囲に渡っており、他の城下町と同様に城に近い立地条件の良い所には上級武士が住み、城から遠い場所や条件の良くない場所、また低地などには中級・下級武士が居住した。下級武士の住居は一般的には「長屋」と呼ばれ、一方、中級以上の武士は専用の敷地を持つ屋敷に住んだ。

 土井利勝が小見川城主から佐倉に移封してきたときは3万2千石であったので、築城当初はその石高に応じた家臣団であった。従って、元和年間(1620年)頃は武家屋敷も城内と城外のわずかな土地で足りたと思われる。ところが、入封して15年後の寛永2年(1625)には、数度の加増もあって14万2千石の大名となったので、家臣の屋敷も城外の方へ次々と広げていかざるを得なかったと思われる。

 

 大手門のほぼ東側に広がる城外は町人地と武家屋敷から構成されているが、武家屋敷は街道に沿った海隣寺並木、その別れ枝である舟見町、大手門から東に延びる道沿いの宮小路、南側に分かれる鏑木小路と、その両曲輪に挟まれている袋小路がある。

 尾根筋の新町道より北に延びる中尾余、最上町、南西に下って野狐台などがあり、飛地として鹿島川を渡った角来村にある江原がある。江原以外は全て屋根筋、及び ここから舌状に突き出した台地上の好条件の場所に位置している。

 

 土井利勝以降の歴代藩主は10万石前後であるが、時代の変化とともに城下の武家屋敷も、その時々に応じて変化したことが各時代の絵図面などからも推測される。

 江戸時代後期の武家屋敷の構成や配置から考察すると、城に一番近い椎木曲輪、天神曲輪、広小路には上級武士の屋敷が多くあって、南側に面した台地上にある鏑木小路には、家老を始めとする上級武士や中級武士の屋敷があり、続いて中級武士の屋敷が多いのはその北側の宮小路や並木町であった。

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■凡例

「長屋」という呼び方については、当時の連続住宅形式の武士の住宅の他に、一つの屋敷内に幾つかの家族が独立して居住する場合も指し、必ずしも建物が一棟であるとは限っていないようで、専用の敷地を持つ「屋敷」と区別していたようである。


 

佐倉武家屋敷の成立と変遷

     ※凡例

      (1)文中「寛文年間」とは大体1660年頃を指す。

      (2)「嘉永6年実測図」とは、『一分一間佐倉絵図』(成田仏教図書館蔵)をいう。

■ 城内の武家屋敷

  城主や時代によって敷地の使用内容が変わり、場所別にも大きな相違がある。一般的に高禄の上層家臣は、寛永(1620~40頃)以来幕末まで大手門内の広小路に、その他の上級武士は椎木門と田町門の間の椎木曲輪の高台にあった

 

 ≪二の丸・三の丸≫

◆土井利勝の寛永時代には二の丸内の南側半分は米蔵で、それに続いて家老屋敷。土井氏以降の城主はここには屋敷を設けなかった。

 

◆明歴期(1650年代)の二の丸内には対面所があり、稲葉藩主時代以降この対面所は城主在府のときの住居を兼ねていた。その後、後期の堀田氏時代の寛政11年(1799)には、対面所の腐朽が激しくなったため取り壊され、政務などの機能は三の丸御殿に移された。

 

◆三の門を入って二の門の方へ折れる道の北側に三方が空堀に囲まれた一画があり、土井氏時代には重臣の屋敷だった。後期堀田氏時代の幕末には、三の門西側屋敷は堀田兵庫、三の門の入った正面は潮田監物らの重臣が住んだ。

 

≪惣曲輪≫

 佐倉城三の丸の東方から北方にかけて位置しており、延享3年(1746)の堀田正亮入封当時には惣曲輪と称していた。当曲輪から本丸にかけてが城内に当たり、そして惣曲輪の台地上と低地に佐倉藩の諸施設や武家屋敷が広がっていた。

  

◆広小路

 本丸東方の大手門から城内に入った中央の武家屋敷地で、台地の平坦部に立地。土井氏時代には広町、堀田正信以降は広小路と称した。

土井氏時代には武家屋敷のほかに御作事場が置かれ、稲葉氏時代には武家屋敷・御作事場・御作事長屋、その後堀田正愛・正倫時代には、会所や三の丸御殿・武家屋敷があった。

 

◆天神曲輪

 広小路の北方に位置し台地平坦部に立地。

土井氏時代には広町の一画で武家屋敷地であった。稲葉氏時代には「広小路ノ裏小路」とも呼ばれ、武家屋敷・大乗院・天神社・稲荷社・御勘定所があった。堀田正愛時代には武家屋敷・長屋・大乗院・天神社・稲荷社があり、正睦・正倫時代には藩校の西塾が設けられていた。

 

◆下町

 広小路の南方、台地南斜面上に立地。

広小路より一段下がった屋敷区画は土井氏時代に下町、稲葉氏時代には中下町と称した。土井氏の時には武家屋敷のみで占められていたが、稲葉氏時代には小役人長屋もあり、堀田正愛・正倫時代には武家屋敷で、郡奉行の屋敷もここにあった。

 中下町より一段下がった屋敷区画は稲葉氏時代には大下町、堀田正倫時代には下町と称された。土井氏時代には武家屋敷のみであったが、稲葉氏時代には武家屋敷・樹木畑そして、堀田正愛・正倫時代には武家屋敷・組長屋・御作事場があった。

 

◆椎木曲輪

 佐倉城本丸の北東、台地北斜面上に立地。

土井氏時代には武家屋敷・円勝寺(円正寺)、そして愛宕社があった。稲葉氏時代には下屋敷がここに出来上がり、その稲葉氏及び堀田正愛時代には武家屋敷・円正寺・愛宕社・五社・秋葉社等があった。

堀田正倫時代には下屋敷跡が調練場となっている。当地からは姥ヶ池・ゴケ曲輪・田町門・根曲輪へと下る4本の坂道があり、夫々、姥坂・杉坂・愛宕坂・蛇坂と呼ばれた。

 

◆天神坂下

 天神曲輪台地直下の低地に位置。

姥ヶ池は後期堀田氏時代までは「タメイケ」(溜池)と呼ばれていた。稲葉氏時代には当所は七曲と呼ばれ、その呼称は幕末まで残った。

 土井氏時代には武家屋敷、稲葉氏時代にも武家屋敷があり、堀田正愛時代には武家屋敷・御勝手組長屋・正倫時代の佐倉城実測図には合羽役所がみられる。

 

◆ゴケ曲輪・根曲輪

 椎木曲輪台地裾部にある曲輪で、東側裾部に接した区画をゴケ曲輪、西側の裾部曲輪を根曲輪と称する。

ゴケ曲輪には土井氏時代には何もなかったが、稲葉氏時代には留守組長屋、堀田正愛時代には組長屋があった。

 

 根曲輪は土井氏時代には武家屋敷のみであったが、稲葉氏時代には武家屋敷・小役人長屋・小細工所・馬場があった。堀田正愛時代には武家屋敷・厠・馬場・畑になった。厠跡は正倫時代には火薬製造所となっている。

 

◆鷹匠町

 下町台地直下の低地に位置。

土井氏時代には武家屋敷4区画と馬屋があった。稲葉氏時代には鷹部屋・小役人長屋・与力屋敷、堀田正愛時代には武家屋敷・組長屋等はあるが鷹部屋は廃されている。

 

◆御三階下

 本丸西崖下低地の通称「御三階下」には、寛永と正保の絵図には武家屋敷8区画あったが、寛文年間には無くなっている。これは印旛沼の水位が高くなった為であろうが、その後は藪地のまま残された。昭和51年に鹿島町が誕生すると「字御三階」となった。


■ 城外の武家屋敷

  1. 宮小路、鏑木小路、並木町および裏新町は明歴期(1650年代)以前に武家屋敷があったが、舟見町、中尾余、最上町、野狐台、江原などは、やや遅れて寛文期(1660年代)以降に武家屋敷が成立している。
  2. 武家屋敷の様子として、海隣寺並木、裏新町などでは明歴期に一戸建ての武家屋敷地であったものが、後には長屋という表示に変わっている。
  3. 佐倉藩は堀田正睦が藩主になったころ(文政8 1825)には、藩財政が非常に苦しい状況下にあった。正睦は財政再建策を打ち出し、藩士の住宅についても新たな基準を設定して質素を旨とするようきつく定めた。所謂、佐倉藩の「天保御制」による「居住の制」である。

    御制の序文には、『家つくりは如何にも軽くいたし、造作なども面々に応じ美麗に及ぶべからず。たとえ勝手よろしきものにても、分限に超え候造作など決していたすまじく候事』と謳っている。

  4. 佐倉藩は代々譜代大名だったため度々転封もあることから、武家屋敷は藩の所有物で、今の職員住宅や官舎の様なようなものだった。異なるところは藩士の身分や俸禄に依って住む家が変わり、転居がよく行われていたことである。
  5. 城外の鏑木小路や宮小路も中級武士の一戸建で寛永以来順次埋まっていった。尚、鏑木小路には、後期の堀田氏時代には歴代の家老が住んでいたようで、若林杢左エ門や植松求馬の屋敷があった。
  6. 幕末になって幕府は藩政改革の一つとして参勤交代を緩め、大大名は3年に一度、他は3年に一度100日と改めた。また、文久2年(1862)には諸藩の江戸詰めの者を一部引き上げさせるよう命じた。佐倉藩では、江戸詰め引き上げ者に住居を与えることになったが、旧来の城下ではその屋敷地がなく、そこで藩有の原野を開墾し、大佐倉将門山、角来埜谷峯(野谷)、飯野御林地の三か所に屋敷割することになった。
  7. 現在、宮小路に展示公開している武家屋敷が3棟あるが、それら全てが必ずしも「天保御制」に合致した建物というわけではないが、3棟がその御制で区分されているカテゴリーにうまく合うように展示されている。即ち、旧河原家が大屋敷(三百石以上)、旧但馬家が中屋敷(百石以上)、旧武居家が小屋敷(百石未満)に当たる。


◆宮小路 

 佐倉城大手門東側に位置する武家屋敷で、台地上に位置し東は成田道に沿う横町(新町)に続く。道幅5間、長さ180間。

 大体中級の屋敷があったが、後期の堀田正睦時代の天保7年に藩校成徳書院が大手門外に建築・開校し、その付属施設ができたこともあって、この表通りには武術師範や医学所の教授などの屋敷が多くあった。

 安政年間の面積でみると、武家屋敷24戸13,678坪・成徳書院977坪である。明治9年に、味噌部屋・袋小路・鏑木小路・大筒と合併して佐倉宮小路となった。

 

◆味噌部屋

 宮小路の北裏側に位置する城外の武家屋敷地。1660年頃(松平氏時代)に味噌蔵が置かれ2棟の長屋が建てられた。この長屋に続いて東側に砲術の稽古場ができ、その後長屋の数が増えた時代もあった。稲葉氏時代の佐倉城府内之図には、「ミソベヤ」と「矢場」がみえる。後期の堀田氏時代の佐倉城絵図にも「ミソ部屋」とある。

 

◆鏑木小路

 旧警察署裏の南北に通っている通りと、公開武家屋敷がある東西の道沿いが鏑木小路で、台地上に立地している。

 南北に通っている道に面しては、土井氏時代には畑地が多かったようで、この通りの西側奥には現在中尾余にある正善寺(勝全寺)があった。東西に延びている鏑木小路には土井氏時代から武家屋敷があった。

 稲葉氏時代は「カフラキクルワ」(鏑木曲輪)と称された。

 後期堀田氏時代になると南北の通りには中級の藩士の屋敷、東西の鏑木小路には家老級の上級藩士の屋敷が与えられた。≪若林杢左衛門氏(3000石)、植松求馬(1000石)≫、また、大聖院東側には大筒組長屋があった。

 

◆袋小路

 宮小路と鏑木小路の間に位置する武家屋敷地で台地上と低地に立地している。稲葉氏時代には「フクロジ」(袋路)、堀田正睦時代には高袋路「(台地上)と「下袋路」(低地)、正倫時代には全体を「フクロ小路」(袋小路)と称した。

 

◆大筒

 鏑木小路の西に位置する城外の武家屋敷地で台地上に立地。

元は鏑木小路の一部で、土井氏時代の佐倉城絵図などに武家屋敷がみられ、稲葉氏時代の佐倉城府内之図には「七軒町」とある。堀田正愛時代の絵図では大筒組屋敷と一部の屋敷の他は畑が広がっている。

 

◆裏新町

 土井氏時代には通りに面して9軒ほどの武家屋敷があった。その後寛文年間(1670年代)頃には、独立屋敷が少なく全部長屋になっている。西から古役人長屋、番組小屋、その東に同心長屋が続き、この長屋に続いて一番東側には牢屋があった。

 後期の堀田氏時代も裏町は長屋で埋められており、嘉永6年の実測図では裏町を大きく三つに分けて、西から大部屋、新長屋、町組とつながっていた。

    

◆海隣寺並木

 海隣寺は天文年間(1540年代)頃、鹿島幹胤が鹿島台に築城をはじめ、その時代に千葉氏の菩提寺である海隣寺を酒々井から移したといわれている。

 土井氏時代武家屋敷を城外につくった時、海隣寺門前と佐倉新町を往来できる道を造るとともに家臣の屋敷割りをしたようである。

 新町の一部である横町から、海隣寺門前までを海隣寺並木と呼んでいた。当時の海隣寺境内は広く、武家屋敷は寺の東側に多く、表通りだけでなく裏の方へも屋敷は広がっていた。

 

 後に清兵衛長屋と呼ばれるようになった海隣寺南側の場所にも、最初は一戸建ての屋敷があった。清兵衛長屋は3500坪ほどの広さである。

 後期堀田氏時代には、東側の表通りには一戸建ての独立した屋敷が続くが、裏側には長屋が多かった。東側を「新建」(しんだつ、しんだち)長屋といった。

 

◆舟見町

 並木町の一部舟見町に武家屋敷が初めて見えるのは寛文年間で、絵図には「無足人長屋」(下級藩士)と記されている。

 稲葉氏時代には、無足人長屋の先端(北側)に新たな武家屋敷が5軒できている。その5軒の北端は古今真佐子を書いた渡辺善右衛門の屋敷であった。真佐子によると舟見町はそれまで「三条寺」とか「永久寺」と呼んでいたようで、舟見町に変わったのは稲葉氏が佐倉城主になってからで、藩主がある時この地を見て命名したと記している。

 後の堀田氏時代には更に屋敷地が広がり畑や山が長屋に変わっている。

 

◆中尾余

 中尾余が新町の裏で屋敷地になったのは寛文以降で、当初の屋敷割りは下級藩士と思われる小さな屋敷が見られる。

 初めはこの辺りを裏新町と呼んでいた時代もあったようだが、その後の絵図には「中ヒョウ」の地名が入っている。嘉永6年の実測図では、新町通りから3~4間の道幅の道路が130間南北に通っていた。

 幕末には入口東側に佐倉牧の野駒の囲場が設けられた。後期堀田氏時代の武家屋敷は長屋が多く、独立屋敷はわずかに見られるのみである。

 

◆最上町

 前期堀田氏時代からこの通りの東側は、延覚寺、宗円寺、養源寺の三ケ寺で占められて夫々相当の寺域を持っていた。西側の嶺南寺の寺域も新町通りの町屋の裏まで広く伸びていた。

 寛文年間には下級藩士の屋敷が現れ、稲葉氏時代には独立屋敷が7棟、他に小役人屋敷と称する長屋もある。

 嘉永6年の実測図では、最上町の南北道路は道幅4m、長さ117間で、養源寺の跡は堀田氏の位牌所・甚大寺となり、その北側は武家屋敷となっている。更にその北には東西に長い長屋が4棟ある。西側の嶺南寺の北側には長屋があり、更に北には鉄砲細工所があった。

 

◆間の町南側

 教安寺の裏側には寛文年間から足軽屋敷があった。弥勒の八幡社の北の踊尾余もこのころから足軽小屋ができた。嘉永6年の実測図では教安寺南に足軽中間小屋2棟がある。踊尾余は東西の53間ほどで、そこにも足軽小屋が北側に3棟、南側に2棟見られる。

 

◆野狐台

 嘉永6年の実測図では野狐台全域に22棟の長屋が見られる。長屋の東端は薬草園があり、その後梅林になっている。当時の野狐台には町屋は無く、民家が建つようになったのは明治以降とされている。

 

◆江原

 寛文年間に足軽小屋と薬園畑ができ、嘉永6年の実測図では江戸への佐倉道の道幅は5間で、この道両側に長屋が多く並んでいた。

 

 

【まとめ】

 佐倉藩は譜代大名の居住地であったため藩主が度々変わった。武家屋敷も新しく移封してきた大名の石高の違いもあって、その時々の状況に応じて、住む武士や建物の変更を行ったといえる。 

 従って、佐倉藩の城内・城外の武家屋敷の構成は、時代による変化が大きく、まとめ方にも苦慮する。只、城に近い場所に上級家臣を配し、遠くなるにつれ中・下級武士を配するといった傾向は他の城下の屋敷割と同じである。

 

 幕末の後期の堀田氏時代で見ると、鏑木小路は上級の武家屋敷があって、家老・若林杢左衛門の4,000坪近いのは例外としても、最低でも268坪、大体300坪~500坪程度が普通で、かなり規模が大きい。宮小路、並木町がそれに続き、中・下級武士まで含む武家屋敷地としてはかなり規模が大きかったようである。

 全体的にみて野狐台、中尾余、最上町、裏新町はほとんどが長屋であり、海臨寺並木、舟見町も裏手は長屋が多くあった。また、海臨寺並木にあった清兵衛長屋は3500坪余りあって、50棟余りの建物に分かれていた。

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