義民伝承「佐倉惣五郎物語」

§1.佐倉惣五郎物語の概要

≪はじめに≫

 佐倉惣五郎または佐倉宗吾(本名は木内惣五郎)は、江戸時代初期に佐倉藩の苛政に苦しむ農民を救う為、自分の身を犠牲にして将軍に直訴した義民として知られ、それは「堀田騒動記」や「地蔵堂通夜物語」といった数多くの写本によって広まった。

 嘉永4年(1851)には、佐倉惣五郎の物語が義民の代表として芝居で取り上げられ、「東山桜荘子」の外題として江戸中村座で上演された。翌年には大阪竹本座で「花曇佐倉曙」が上演されて人々に広く知られることとなった。

 しかし、佐倉惣五郎物語については、物語自体の信ぴょう性が必ずしも定かではないとされています。

 

 義民伝として様々な写本が出ているが内容が史実と矛盾する点が見受けられたりして、これが惣五郎の存在そのものが否定されることにつながり、伝承や物語の人物としてしか評価されない大きな原因にもなっているようです。また、惣五郎物語は、あまりにも直訴のことが強調されるが故に、それがかえって伝承の域を抜けきれなくしているともいえます。

 

 

 江戸時代に将軍に直訴した義人として語られてきた惣五郎ですが、写本などに記載されている名前が公津村の宗五郎であったり、岩橋村名主の惣五郎となったりすることや、将軍への直訴年代が幕府の編纂した「徳川実紀」やその他の諸文献に照らし、内容が史実と矛盾する点などが指摘されており、直訴だけでなく惣五郎の存在そのものの否定にもつながっているようです。

 

 以下は、出版物や諸資料、更に現地を歩いて確認した事項等をもとにして、惣五郎物語をより理解しようと試みた内容です。

参考文献

*実説佐倉宗吾伝・・・・・・・箸 長田彦次郎 

*地蔵堂通夜物語・・・・・・・編集者 根元幸太郎

*国立劇場上演資料(399)・・≪通し狂言『佐倉義民伝』≫

*国立劇場上演資料(209)・・≪歌舞伎公演解説書≫

*現在語訳・地蔵堂通夜物語・・著 西野辰吉

*現在語訳・佐倉義民伝・・・・箸 西野辰吉

*佐倉惣五郎と宗吾信仰・・・・箸 鏑木行廣

*新佐倉真佐子・・・・・・・・編纂 佐倉市中央公民館

 

≪宗吾霊堂≫

 京成電車で上野から約1時間、宗吾参道駅から歩いて10分のところに宗吾霊堂(正式には鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂)があって、惣五郎父子の墓もここにある。

 宗吾霊堂では、惣五郎の命日といわれる旧暦の8月3日に合わせて、新暦9月3日には処刑された惣五郎を偲んで宮なぎ行事として供養と祭祀が行われ、 宗吾地区内を山車が曳き廻されると共に、大本坊の中や野外に設けられた舞台の上でみたま踊りが奉納された。境内にはところ狭しと屋台店が並び、近隣は勿論、遠くからも多くの人が参拝に訪れていた。

 

 その後、平成16年からは、お待夜祭が9月の第一土曜~日曜にかけて行われるようになり、境内に多くの屋台店が出る姿や山車が町内を曳き廻される光景は依然と変わらないが、みたま踊りなどは規模が小さくなったようである。

 惣五郎に対する民衆の崇拝は篤く、幕末の一揆参加者には宗吾霊堂参詣の際のお守りを配る者がいたという話もあり、今も惣五郎が処刑された刑場跡に埋葬された父子の墓には、線香の煙の絶えることがありません。

 

 また、宗吾霊堂本堂の左奥にある「宗吾御一代記館」では、惣五郎物語の主要な場面が等身大の生人形によって再現されています。

 以前は、係りの女性による場面毎の独特の節回しの説明があって、その話し方が身に迫って心底切ない思いに駆られたが、今は館内の案内は録音テープによって行われている。

 

≪佐倉惣五郎物語のあらすじ≫

 惣五郎に関する写本には幾通りもあるが「地蔵堂通夜物語」(惣五郎伝説の元になっているといわれる)が最も広く知られており、この「地蔵堂通夜物語」を基に惣五郎直訴事件の概要を振り返ってみよう。

 

【物語の形式】

 佐倉市の東端大佐倉の地に、中世の名族千葉氏ゆかりの「常奯山勝胤寺」という一寺がある。この勝胤寺にあった地蔵堂を舞台にして、23日夜の地蔵菩薩の日に一夜の宿を求めた修行者「永西」に、庵主あるいは惣五郎夫婦の亡霊が≪惣五郎についての話≫を語る形式になっている。

 それは、庵主が修行者に念願成就を労っていると、この修行者が、「この上に将門・口の宮・妙見という祠があるがいつの勧進か」と尋ねるという形式で話が進められている。そして修行者が物語をどのような形で聞くかによって、写本のパターンが幾つかの系統に分かれているようである。

①庵主が全てを語る形式。

②毎月23日の通夜にやって来る夫婦者が語った事を、庵主が本堂に行っている間に

 修行者が書き止める形式。

③最初は庵主が、その後庵主が本堂に行っている間に夫婦者が現れて語る形式。

 

【物語のあらすじ】

1.承応元年(1652)佐倉藩主掘田正信の頃、印旛沼畔は干ばつや沼の洪水に加え、年貢

  が上がったり新たな税が課せられたりして領民の困窮は甚だしく、年貢を納められず

  に先祖伝来の土地を失って路頭に迷う農民が続出した。

 

2.農民たちは役人に賄賂を贈ったり、代官・郡奉行・勘定頭、国家老へと訴えたが聞き

  入れられず、万策尽き江戸屋敷へ訴え出る事を決めた。

 

3.農民たちは別々に分かれて密かに江戸に入り、約束の日に江戸屋敷の門前に集まっ

  た。門番が立ち去るよう追い払ったが、嘆願したい事がある旨を伝えて名主たちは

  一歩も引かなかった。翌日、改めて下屋敷に行ったが、取り次ぎをした役人は、農

  民の願いも聞かずに早く国元に帰れと門を閉ざしてしまった。

 

4.やむなく惣五郎を含む名主一同は浅草の茶屋で相談をやり直し、今評判の老中久世

  大和守の登城を狙って駕籠訴に及ぼうと決め、久世大和守が江戸城に登城する当日、

  屋敷から出てきた駕籠をめがけて大勢の農民が走り寄り、何とか訴状を受け取って

  もらう事に成功した。

 

5.訴状はいったん受理されたが、評議が行われるまで時間もかかるだろうと、大部分

  の農民は国元へ帰り、惣五郎と5名の名主≪武射郡滝沢村名主六郎兵衛、印旛郡下勝

  田村名主重右衛門、印旛郡高野村名主三郎兵衛、千葉郡千葉町名主忠蔵、相馬郡小

  泉村名主半十郎≫だけが残ることになった。

 

6.後日、呼び出しに応じて6人が久世大和守の屋敷に行くと、「先日の駕籠訴は不届き

  であるが、今回は格別の慈悲で許す」との仰せ渡しがあって、惣五郎達の重ねての訴

  状取り上げ嘆願も聞き入れられず、玄関先にて差し戻された。

 

7.昨日までは念願が成就するものとばかり思っていた惣五郎たちは、訴状の下げ渡し

  に衝撃を受けた。進退窮まった一同は、「所詮 国に帰っても処罰は免れない、この

  上は将軍様に直訴するしかない」と思い定めた。

 

 

 

【直訴状】

 直訴状では、佐倉藩領の印旛郡佐倉84ケ村、千葉郡千葉74ケ村、相馬郡布川39ケ村、武射郡山辺7ケ村の、名主や農民が6項目に渡って佐倉藩の年貢が高いことや農民の窮状を訴えている。

 惣五郎は、警備が厳しいので自分一人で直訴することを打ち明け、佐倉藩の農民代表として自分が命を捨てる覚悟だといった。

【直訴決行】

 四代将軍徳川家綱が上野の東叡山寛永寺に参詣する事を聞き、惣五郎は前の夜から寛永寺の黒門の三橋の下に忍び込んで将軍の一行を待ち、遂に将軍への直訴決行に及んだ。

 

 訴状は首尾よく脇にいた役人が手にする所となり、佐倉藩主堀田正信へと下知される。

 これにより事の子細は堀田正信の知る所となり、失政を指摘された正信は激怒して。国元の役人を厳しく叱責し佐倉藩は大騒動になった。

 

 このような直訴が起きたのは国元の役人らの勤め方が悪いからであり、佐倉の役人らを吟味し、自分の切腹も考えながら農民たちの願いを聞き入れるよう国元役人に強く命じた。しかし地方役人たちはいずれも自分の非は隠し、惣五郎はとんでもない悪党で、直訴の頭取として極刑にすべきであると主張した。

【惣五郎の処刑】

 惣五郎は囚人駕籠に入れられ、他の5人は腰縄をうたれて江戸から佐倉に送られた。

 村々の願いは叶えられたが、惣五郎や5人の名主はどうなるのだろうかと人々が案じている中で、惣五郎については処刑、5人には佐倉十里四方への追放との裁定が下された。

 

 家老や一部の家臣には、「惣五郎の直訴は大罪であるけれども、妻を同罪にするのは如何なものか」、「子供は死罪でなく追放が相当ではないか」とか、「罪を軽くし、賞を重くせよ」という古い言葉をいう者もいたが、正信は地方役人の主張を受け入れ、「惣五郎の罪は言語に絶するものであり、一人も助ける事は出来ない」と、『家財や田畑は没収、惣五郎は磔刑、夫の企てを隠した罪で妻も同罪、子供四人は父親の罪で死罪』を申し渡した。

 

 磔刑となる理由として上げられた罪状は、「直訴の罪」、「久世大和守への駕籠訴の罪」、「藩の役人に従わず難渋を申し立てた罪」、「徒党を組み頭取を務めた罪」の四つであった。

 

 惣五郎の処刑後には国元の役人たちにも追放の処分が下されて、この騒動は幕を閉じる事になったが、時がたつにつれこの悲劇は伝説化し、堀田氏の悲運も重なって惣五郎亡霊伝説などを生む事につながった。

 

【直訴後の影響】

 後に堀田正信は幕政を批判し、怒りに任せて幕府に無断で佐倉に帰城したため改易となり、最後には遠流先の徳島において鋏で自殺した。

 正信の弟の正俊は、五代将軍綱吉の将軍職相続争いに功があり大老にまで上り詰めたが、新将軍の覚えめでたからず江戸城内で刺殺されるなど、奇しくも惣五郎の事件以来堀田家の不運が続くことになった。

 正俊の子正仲は、堀田家が将軍から忌み嫌われたためなのか、山形、福島へと間をおかず転封となり不運の生涯を送る事になった。

 

 そして再び堀田家に曙光がさすのは、将軍吉宗時代の延享3年(1746)に、堀田正亮が山形から佐倉藩主に返り咲いた時である。

 正亮は惣五郎処刑後時代が流れた宝暦2年(1752)の惣五郎の百回忌の時に、亡き惣五郎に「涼風道閑居士」の法号を謚号し、百回忌を手厚く弔ったのである。また、堀田正時の時代には、惣五郎の子孫に田高5石を供養田として与えた。

 

 これによって、惣五郎は公に認められた義民として崇められるとともに、信仰の対象になっていったのであった。

 「居士」の位号は「士」以上の身分なる者に付けられる法号であり、この時、生前の名前惣五郎に因んで「宗吾」なる法名が付けられた。しかし、堀田家が改易されたことや正信が蟄居され自殺に及んだことは事実であるが、その事が惣五郎の事件に関連したという史実はなにもない。

 

 ※「惣五郎」と「宗吾」と言う二つの呼び名が語られるが、人物を言う時は「惣五 

  郎」、信仰の対象として話す場合は「宗吾」と理解するのが分かりやすい。 

 

 

§2.佐倉惣五郎物語と芝居の世界

 佐倉惣五郎物語は義民の代表として取り上げられ、嘉永4年(1851)「東山桜荘子」が、江戸中村座で上演されたのを皮切りに、翌年には大阪竹本座で「花雲佐倉曙」が上演されている。

 しかし、「東山桜荘子」では時代を足利幕府の義政の時代に移して脚色され、初演の時は、役名も「佐倉惣五郎」を「朝倉当吾」とした。

 作者は瀬川という狂言作家で、当時人気の高かった「田舎源氏」という書物と、講釈や実禄本で世間に知られていた下総佐倉の領の義民・木内惣五郎の話を取り混ぜ、主演の四代目市川小団次に当てはめて書かれたもので、予想に反して大当たりとなったようである。

 

 この狂言の成功はただちに下総一帯の将門信仰、成田不動尊信仰に連動し、これを見ていないものは相手にされないほどで、惣五郎と一体になった市川小団次を一目見ようと、連日大勢の人々が小屋につめかけ、中には惣五郎の生き方に比べて自分のふがいなさに自殺する者まで現れたという。

 江戸は惣五郎一色で、芝居や出版物は勿論の事、講釈師や落語家までもこぞって惣五郎物語となった。そして惣五郎の墓にも大勢の人々が押し寄せるようになったのである。

「見物の山をなし、佐倉の村民もこの噂を聞き競うて江戸に来り、この芝居を見物せり」というように客がつめかけ、「木綿芝居」として危惧されたが興行成績も想像以上のものだった。

 

 「義民物」の芝居は幕末になって現れ始めるが、それまでは観客もこうした生々しい題材を好まなかった事や、当時の政治もその様な内容の上演を喜ばなかったためで、幕末になってこれが行われるようになったのは、幕府の権威が失墜した表れともいえる。

 

 写本の方も「地蔵堂通夜物語」を原形にしながら、伝説が膨らみ、脚色が加って幾通りもの「佐倉義民伝」ができた事になる。しかし、こうした民衆の抵抗の事実を幕府としては隠し、歴史の記録から抹殺しなければならないという事情もあって、それが資料の乏しい要因の一つになっているのかもしれない。

 

 物語では惣五郎の怨霊の祟りで堀田家が改易させられる事になっているが、怨霊伝説というのが民衆社会において受け入れ易い、且つ理解出来る物語だったとも考えられ、勧善懲悪と同じように、義人の怨霊で悪政側が最後に罰を受けるというストーリーが、民衆の心情と願いに合致したといえよう。

 

■■■平成10年の歌舞伎「佐倉義民伝】

        ◆惣五郎、宗吾の名は歌舞伎案内書の文字をそのまま使用した。

 平成10年10月に、東京国立劇場で「佐倉義民伝」の歌舞伎が上演された。以下はその芝居の概要です。

 

(≪序幕≫):回り舞台を効果的に使って、門の内と外を交互に見せる。

第一場:堀田家門内の場

第二場:堀田家門外の場

第三場:堀田家門内の場

 

 下総佐倉国では、長年の飢餓続きで百姓の生活は疲弊している。あまつさえ堀田家佞臣の苛政により重税が課せられ村は荒廃の一途をたどっている。当地の名主木内宗吾は、義父も既に投獄の身であったが、村人の意思を汲んで藩主堀田上野介に嘆願する。しかしこれは受け入れられず、民の困窮はいよいよ極まる。

 

(≪第二幕≫)

   〈印旛沼渡し小屋の場〉

 

 身を捨てての将軍家への直訴しかないと決意して、宗吾は妻子に別れを告げに帰郷する。もはや追われる身となった宗吾であるが、渡し守甚兵衛が宗吾の意に応えて、掟を破って舟を出してくれた。

 

(≪第三幕≫)

第一場:木内宗吾宅内の場

第二場;木内宗吾宅裏手の場

   愛する妻といとしい幼子との束の間の団欒、しかしこの間にも餓死の人が出る。哀れな今生の別れが雪の中で繰り広げられる。

 

(≪第四幕≫)

  〈東叡山直訴の場〉

 宗吾の直訴は東叡山寛永寺で実行された。老中松平伊豆守の慈悲により何とか願書は届いたが宗吾は捕らわれの身となる。

  

(≪第五幕≫)

 〈仏光寺祈念の場〉

 宗吾の叔父に当る仏光寺の名僧光然は、宗吾一家の命乞いを祈念していたが、それも虚しい結果となり、宗吾一家は乳飲み子までもが死罪に処せられた。怒り狂った光然は戒めを破って、堀田上野介を呪うべく魔界の鬼のごとく変じていった。

 

(≪第六幕≫)

   〈堀田家寝所怪の場〉

 堀田上野介は宗吾一家の刑死以来、彼らの亡霊の怪に悩まされている。印旛沼に入水した光然の霊までも現れ、そのすさまじさに上野介は狂乱の態に陥る。

 

(≪大詰≫)

     〈東勝寺宗吾百年祭の場〉

 

 惣五郎の死より百年、惣五郎が眠る東勝寺では盛大にその霊を弔う例大祭が執り行われている。藩主の代も替わり、君と民とが同座する笹踊りは賑やかである。今日は惣五郎の末裔までも現れて、新たに宗吾霊堂が建てられる事になった。佐倉の泰平を祝う踊りは何時までも続くのであった。

 

 

■■■平成17年の「佐倉義民伝」の公演

平成17年5月の前進座による国立劇場での公演は、門訴から子別れのまでの二幕三場であった。

  第一場  江戸下屋敷門前

  第二場  印旛沼渡し小屋の場

  第三場  惣五郎住居の場

 

 佐倉惣五郎の話は、苛政 ⇒門訴 ⇒老中駕籠訴 ⇒将軍直訴 ⇒処刑 ⇒怨霊という筋を持ち、文化・文政時代ころから幕末にかけて盛んに筆写され多くの写本が現れたという。

 「東山桜荘子」は嘉永(1850年代)の大ヒット後、幕末から昭和の初めまで頻繁に上演された。外題は「花曇佐倉曙」、「桜荘子後日文談」などと変化するが、明治30年代頃から「佐倉義民伝」として定着することになった。

 嘉永年間のヒットの要因となった見せ場は、惣五郎と叔父光然の祟りといった部分だったようだが、その後は、歌舞伎で挿入された「甚兵衛渡し・子別れという惣五郎の苦悩、甚兵衛の義心」で、明治以降は甚兵衛渡しと子別れ物語が中心になっていったようである。

 

 大正年代以降の「佐倉義民伝」は、大多数が印旛沼渡し場より東叡山直訴の場までを出しており、五幕目の仏光寺の場を見せたのが十数回、次の堀田家の場までをやったのが十回程度、更に、後の宗吾神社祭礼の場を出したのは、昭和5年の新宿新歌舞伎座初演の時だけとなったようである。

 このように「佐倉義民伝」の芝居は、全通しでは七幕十場になっているが、何時も全部を公演することは無く、その時の監修で五幕以降をいろいろ変えている。そして、近年になって「佐倉義民伝」というと「渡し」「子別れ」「直訴」の三場だけの上演が多いようだ。

 

 このように惣五郎の芝居が成功した背景としては、興行における脚本・俳優・舞台装置など、狂言としての整いや各場の見せ場を配していることが大きいといえるが、その根底にある権力悪に対する民衆の反発と、人々の生活を救うための自己犠牲への共感や賛美の念がブームを呼び起こしたともいえる。

 

 

§3.惣五郎伝説の信ぴょう性

 『佐藩主堀田正信の時代に、国家老らの悪計により不当な重税を強いられ、農民は極度の困窮に陥った。

 惣五郎が佐倉領内の領民の為四代将軍家綱に直訴することによって、領民は悪政から救われる事になるが、惣五郎は越訴の罪により承応2年(1653)8月3日磔刑になった。

 

 その後、惣五郎の怨霊が祟りをなし、万治3年(1660年)に堀田家は改易、佐倉藩主正信は領地を没収されて蟄居となり、その後は幽閉の身となり、延宝8年(1680)5月将軍家綱に殉死する形で自殺する事になる。』

 このような興味を抱かせるストーリー性に仕立てられた惣五郎物語ではあるが、その存在すらもはっきりしない佐倉領内の一農民の惣五郎でありながら、処刑されたという年代から100年後の宝暦年間(1750年代)には佐倉藩主の手によって神として祀られ、さらに100年経った嘉永年間には江戸の芝居で上演されるまでに伝説が成長した。

    

 惣五郎伝説は佐倉藩江戸屋敷への門訴に始まり、老中久世大和守への駕籠訴、そして最後には上野寛永寺三橋における将軍への直訴というように、愁訴、越訴の方法が全て盛り込まれた整った筋書きになっており、あまりにも直訴の事が強調されるため、かえって伝承の域を抜けきれなくしているともいえる。

 

≪惣五郎直訴事件について明らかになっていること≫

 惣五郎の一揆事件を証明する資料が整っているわけではなく、行ったといわれる将軍直訴の年代にも色々異なった説がある。

 ただ公津台方村に惣五郎(本名 木内惣五郎)なる百姓がいた事は、宗吾霊堂に残されている名寄帳によって確かめられており、それらによると、

①村内で有力農民であったこと

②承応2年(1653)8月に刑死したこと

③子供四人が同時に殺されたこと

④祟りがあるというので村人が石の祠を建てたこと。・・・

                       等は確認されている。

 

≪惣五郎事件の原因とされる諸説≫

(1)  惣五郎事件があったときの年貢が高く、年貢の軽減を願い出た事件説。

(2)  公津村が検地によって五か村に分かれる時、年貢や諸役が増やされることを心配

       して検地に反対した説。

(3)  惣五郎は戦国時代に下総地方を支配していた千葉氏家臣の子孫で、滅亡した千

     葉氏を再興させようとして起こした事件説。

(4)  利根川の改修・東遷工事が実施された時、田畑がつぶされるのでこれに反対した

    事件説。

 

≪直訴年代の疑問点≫

(1)写本によっては、正保元年(1644)・正保2年(1645)説、 正保・承応説、

   正保・寛文説、 承応説などあって、夫々が異なる時代でストーリーを組み立てて

   いる。しかし、写本の年代によっては時の将軍が家光であったり、堀田氏の家督者

   が正盛時代になったりするので、話の組み立てに矛盾が生じる。    

(2)地蔵堂通夜物語では直訴が行われた年月を承応2年(1653)12月とするものが多

   い。

   ◆宗吾霊堂では磔刑が行われた日を、承応2年(1653)8月3日としている。

 

≪惣五郎の出自の疑問≫

説1.「地蔵堂通夜物語」は牢人説を採用しているが、素性を明らかにしていない写本

    が多い。

 

説2.「印旛郡史」は、戦国時代に下総北部を支配していた千葉重胤に仕えていた木内

   源左衛門の曾孫説。源左衛門は千葉氏の滅亡後に旧臣と印旛沼の開発を試みたが、

   成功しないまま土着して農民になったという。

 

説3.惣五郎は養子であったとする説

①印旛郡吉高村(現印西市)の富井清右ヱ門家から養子に入ったという説。これは

 吉高の迎福寺にある過去帳の承応2年(1653)の項にその様なことが書かれてい

 る事から来ている。

   ②公津村の出山家から養子に入ったという説。惣五郎は常三郎と春との間に長男と

          して生まれた勝太郎で、後に木内宗左衛門の養子に入ったという。

 

説4.「佐倉義民伝」は、花井権太夫という北面の武士が惣五郎の先祖であるという説。

   聖武天皇の皇女松虫姫が下総国へ治療に来たとき従って来たのが花井権太夫で、後

   に名を惣太夫と改めて岩橋村に移り住み、代々相続して惣五郎に至ったとしてい

   る。

 

 

§4.佐倉惣五郎と宗吾信仰

1.惣五郎という農民

【1】惣五郎という農民

 惣五郎は下総国印旛郡公津村(現成田市)の名主ということになっているが、惣五郎直訴事件が実際にあったのかについては、まだ史実としては明らかになっていない。

 しかし、惣五郎という農民が、直訴事件が起こったという時代に実在していたことを示す公津台方村の名寄帳(土地台帳)が見つかり、この名寄帳によるとこの惣五郎という人物は、農民の中では広い面積の土地を所有していたようである。

 

 これから見ても、公津台方村の惣五郎という農民は、当時名主や村役人を勤めていたとしてもおかしくない有力な農民であったといえる。しかし、この惣五郎が直訴事件をおこした惣五郎と同一人物であるとの確証はなされていない。

 

  写本による名前も、惣五郎、宗五郎、宗吾など様々であるが、我々が惣五郎物語を理解する上では、人物を指す場合は土地台帳の名寄帳に記されている「惣五郎」、信仰の場合は諡号といわれる「宗吾」と使い分けるのがふさわしい。

 

 また、直訴の原因になっている年貢は、堀田正盛が佐倉に入った寛永19年(1642)から次第に上がり、正信の時代になって更に高年貢になったのは事実の様で、幕府を批判した正信が改易された際には、佐倉藩の年貢が高かったと幕府が認め、それを引き下げた事からも明らかと思われる。

 

【2】惣五郎の家族構成

 地蔵堂通夜物語によると、死亡時の惣五郎は48歳で、子供4人も刑死したとされるが、名前は地蔵堂通夜物語では「彦七」11歳、「徳治」9歳、「乙冶」6歳、「徳松」3歳とするものや、義民伝では「惣平」「源之助」「喜八」「三之助」とする写本もある。

 しかし、宗吾霊堂や木内家の過去帳には「彦七」「とく」「ほう」「とじ」と彦七以外女子名が記されており、処刑に当たり女の子を男名にしたとも伝えられている。

 宗吾霊堂では過去帳に基づいたとして4人の子供については、戒名が「道了」・「道明」・「道案」・「明露」としている。

 

 また、当時東勝寺の住僧等の助命嘆願により連罪を免れた惣五郎の妻「きん」については、頼りにする夫と愛児に先立たれて生きる望みも失ったが、その菩提を弔う事こそ我が使命と悟って、髪をおろし尼法師になって半生を惣五郎父子の墓盛に捧げ、54歳でこの世を去ったとされている。法名は「妙閑」。

 しかし、惣五郎と時を同じく同罪によって処刑されたという伝承もある。

 

 その他に常陸国信太郡波賀村に嫁いでいた長女「ゆき」21歳、常陸国河内郡小野村の藤三郎に嫁いでいた次女「かつ」16歳は、おかまいなしとなった。

 現在も続いている木内家は、この妹「かつ」が夫の死後実家に戻って木内家を継いだと伝えられている。

 

2.宗吾信仰の形成

【1】惣五郎の仏名と宗吾信仰

(1)佐倉惣五郎は承応2年(1653)に刑死したとされているが、翌3年に佐倉城主の

   堀田正信は領内の将門山の将門明神社に石の鳥居を寄進した。

    ところが、この鳥居の近くに惣五郎を祀る祠があったこともあって、惣五郎の

   祟りを鎮めるためにこの鳥居を寄進したとも言い伝えられるようになった。

 

(2)鳥居を寄進した年が惣五郎が処刑されたとする翌年の承応3年11月であり、さらに

   は怨霊の代表的存在の平将門にちなんだ場所であったため、後々の怨霊伝承の発生

   源になっていったとも考えられる。

 

(3)後に堀田正信は改易されるが、江戸時代中期に一族として再び佐倉城主になった堀

   田正亮は、惣五郎の100回忌に当る宝暦2年(1752)に、「涼風道閑居士」の戒

   名を送るとともに、将門山に口の明神を建てて惣五郎を祀った。

    しかし、このように領主が一農民を祀るというのは異例のことである。

 

(4)惣五郎の始めの戒名は「道閑」であるが、これは親類の源左衛門が、刑死した惣五

   郎の遺体を引き取って埋葬した際、菩提寺になった東勝寺が付けたものと伝えら

   れている。

    宝暦2年宗吾百年忌に当たって堀田正亮が贈った戒名は、「道閑」の上に「涼

   風」の二文字を置き、それに居士号を付けた「涼風道閑居士」であった。

◆生前の実名惣五郎にちなんで「宗吾」なる諡号が論じられたことから、

 惣五郎、宗吾という二つの名前が混乱して語られるようになったともい

 える。

 

(5)義民となった惣五郎は、以降も堀田氏の篤い崇敬を得た。

 堀田正亮の後を継いだ佐倉城主堀田正順は、寛政3年(1791)の惣五郎140回忌

 に際して、「徳満院」の院号を送り、墓には惣五郎と4人の子供の戒名を刻んだ

 石搭を建てた。

 

(6)また、次の佐倉城主堀田正時は、文化3年(1806)に生活に困窮していた惣五郎

   の子孫・利左衛門に、7反1畝15歩、石高で5石5合の土地を与えた。

    この利左衛門家が「宗吾旧宅」の木内家に当る。堀田氏は土地を与えるに際し、

   「この田は、売買はもとより質物にも入れないで子孫長く所持すべきである」と

   申し渡しており、これらのことからも惣五郎の直訴事件があったか否かは別として

   も、惣五郎の祟りがあるという考え方が広く伝わっていたことが想像される。

 

 

【2】将門山と口の明神

 佐倉の東端に将門という地名があり、その辺一体を「将門山」と呼んでいる。

将門という地名があることから、そこが平将門の城址としての伝承が流布され、本当に将門の居城があったかのごとく思っている人もいる。

 しかし、将門が猿島に居城を構えて東国各地を攻略していた頃の行動範囲からは、将門山辺りがその舞台になったとは考えられず、まして将門の城があったとは信じ難い。その他にも、伝承の上では武将千葉氏との関係を媒介していろんな伝説が残されているが、これらを裏付ける資料は何もない。

 

 戦国時代以来、将門山には妙見宮(奥ノ宮)、将門山大明神(中ノ宮)、日吉山王社(口ノ宮)があり、これらを「将門三社」と呼び、村内の真言宗宝珠院が別当を務めていた。

 将門山大明神には平将門を祀っており、妙見宮は千葉氏の氏神として知られている。そして、口ノ宮は後に惣五郎を祀ったとされている。

 

 口の明神(口明神/口の宮)は堀田正亮が建立したとか、元々あった祠に惣五郎の霊を合祀したとか、はたまた堀田正信が惣五郎の怨霊に悩まされて惣五郎の霊を祀ったとか、これについても怨霊にまつわる話がいろいろある。

 

 怨霊による口の明神建立説はともかくとして、領主が一農民を祀るというのは異例で、これによって惣五郎は公に認められた義民として崇められるとともに、信仰の対象になっていったようである。

 しかし、別の観点からみると、惣五郎を口の明神に祀ると同時に、100回忌に当って「涼風道閑居士」の戒名を送った背景には、領主が農民支配の円滑化を図る懐柔策に惣五郎を利用したと考える事もあり得たのではないだろうか。

 

§5.佐倉惣五郎関連話

■1.惣五郎と堀田正倫の関係

① 佐倉藩士平田半十郎が文化2年

 (1805)に、佐倉田町の湯屋伝右

 衛門の世話で、印旛郡台方村の利左衛

 門の娘「りつ」を後添えにもらうこと

 になった。

②「利左衛門」という名は、惣五郎の家

 を代々継いでいる当主が踏襲している

 名で、「りつ」は文化3年3月、一度京

 都淀藩領の埴生郡酒直村の彦衛門厄介

 の養女になった。

③ その後4月になって、平田半十郎は改めて「りつ」を自分の妻にしたいと願い出た。

④ この時半十郎には先妻との間に収助という子供がいた。

⑤ その収助の娘「伊久」が堀田正睦の側室となって正倫を出生した。

 

■2.下勝田の世直し宮

 佐倉市和田の下勝田に天満神社がある。

この神社では毎年七月境内で獅子舞が奉納されるが、拝殿に向かって右側の少し入った所に小さな祠がある。

 この祠は『世直し宮』と呼ばれている。

佐倉惣五郎物語に、久世大和守に駕籠訴を行う6人の名主の一人に印旛郡下勝田村の名主「重右衛門」が入っていた。

 この祠はその重右衛門を祀っている宮とされている。

■3.「甚兵衛渡し」と「渡し守甚兵衛」

 「甚兵衛渡し」は印西市(旧印旛村)吉高と成田市北須賀間の印旛沼を渡る渡し舟の事であるが、今は情緒豊かな渡し舟の姿は消え、替って立派な甚兵衛大橋がその役目を担っている。

 

 公津台方村の名主であった惣五郎は、打ち続く凶作と重税に苦しむ農民たちを救う為、佐倉藩領の名主たちとともに、江戸屋敷へ強訴したり老中に駕籠訴をするなど、八方手を尽くして税の軽減を願い出たが聞き入れられず、やむなく将軍への直訴を決意するのであった。

 惣五郎は、将軍に直訴するに際して家族との最後の別れのため、雪の降りしきる夜密かに甚兵衛渡しに来た。

 その時、印旛村吉高に住んでいた印旛沼の渡し守甚兵衛は、役人から厳しく命じられていた禁制を犯して鎖を切って渡し舟を出し、惣五郎を助けた。甚兵衛はその後に「このまま囚われの身になって生きるよりは」という思いの果て、寒い夜の印旛沼に身を投じたという。

 

 惣五郎に義の誠を尽くして凍える印旛沼に身を投じた義民・渡し守甚兵衛は、惣五郎物語の歌舞伎の中では無くてはならない人物となっているが、渡し守甚兵衛が実在したかどうかは定かではない。

 

 後に芝居になった『東山桜荘子』や「花雲佐倉曙」に甚兵衛の話はでてくるが、『地蔵堂通夜物語』には記述が見当たらず、甚兵衛は芝居上の人物として途中から登場したともいえる。

 このように実在したかどうかわからない甚兵衛ではあるが、旧印旛村吉高の迎福寺近くには甚兵衛の墓(碑)があり、周りは何時もきれいに掃除されて、地元の人は実在したと信じている人が多い。 

■4.光然和尚の墓石

 江戸時代の佐倉五ケ寺の一つであった下岩橋にある真言宗の大仏頂寺。開基は大同2年(802)ともいわれる歴史のある古刹である。その大仏頂寺の墓所に、ポツンと「光然和尚」のものといわれる墓石がある。

 

 「光然」和尚は、芝居の中では「仏光寺」の僧で、惣五郎の叔父に当たる立場の人物として重要な役柄になっている。

 

 

 惣五郎に処刑が行われ家族にも罪が及ぶ事になった時、幼い子供を弟子にしたいと願ったが許されず、挙句に処刑された子供の首を刑場から持ち出し、抱いて印旛沼に入水したと伝えられている。

 しかし、光然和尚は実在した僧侶だったのか、またこの墓が実在した光然和尚の墓なのかを確かめるすべはない。

 

佐倉惣五郎物語 終わり

 

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