佐倉城下町の神社とお稲荷さん

■旧城下町地区の神社に限定した案内になっています。

■佐倉総鎮守 真賀多神社に関しては、別メニュー「麻賀多神社」で案内していますので、そちらをご覧ください。

 

(1)浅間神社(佐倉市鏑木町348番地) 

特別養護老人ホーム「さくら園」がある浅間尾余に位置し、普段は「鏑木の浅間神社」という呼び方をする。

江戸時代に佐倉城三の丸にあった城鎮守の浅間神社は明治になってこの鏑木の浅間神社に合祀された。 

昔から鏑木ばかりでなく周辺の人々の信仰厚く、祭り当日には講中の人たちが皿田の清水(神社の南崖下で清水が湧き出ていた)で身体を清め、白地の着物を着て、「三国の光の元を尋ねれば、朝日に夕日富士の極楽、南無仙大菩薩」と唱えながら、急な坂を登山の儀式に従って登って祭典を行なっていたようである。

 

そうした祭礼行事は無くなったが、神徳の一つが子供の出世開運もあって、71日の祭礼には子供達が親ともども大勢お参りに来る。最近は露天商の屋台も10軒ほどが並ぶようになった。、


(2)八幡神社(佐倉市弥勒町254番地)

御祭神は誉田別尊(ほむたわけのみこと)=(応神天皇)で、弥勒町の氏神として創建され神社で

創建年代は定かでないが、常夜灯や手水鉢の奉納年を見ると文政時代のものが多いことから、180年以上前の創建と考えられている。

 

明治29年に社殿が焼失し、現在の社殿は同32年に再建されたものである。現在社務所の建物がある場所には、かつて土俵があって、昭和30年頃までは祭礼日に素人相撲がにぎやかに行なわれていた。

応神天皇在位の時代は、中国・朝鮮より文字が伝わり、縫工・織工等が来日して日本に技術が伝えられたこともあって、八幡神社は勉学・創業の神として崇拝され、その後、清和源氏をはじめ、全国の武士たちが武運の神としても崇敬した。

  

(3)愛宕神社(佐倉市海隣寺町102番地)

田町にある愛宕神社は、江戸時代に佐倉城内にあった神社である。

東京港区にある愛宕神社は、江戸時代に徳川家康の命により防火の神様として祀られた神社で、別称「天下取りの神」とか「勝利の神」として権威を持った。そんなわけで、各藩大名も、幕府に忠誠を誓う意味もあって地元へ分霊を持ち帰り愛宕神社を祀ったといわれる。

 明治になって城跡に兵営が設置され、移転を余儀なくされたため、田町の氏神として明治12年に現在地に遷痤した

主祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)=迦具土命(かぐつちのみこと)で、御神徳は防火・防災で火伏せの祭神であるが、江戸時代以降「将軍地蔵」も祀られている。

 

 

(4)神明神社(佐倉市大蛇石橋台578番地)

 神明神社は、本町の鎮守「しんめいさま」ととして地域で親しまれている神社である。

祭神は伊勢神宮と同じ「天照大神」で、当神社は今から750年ほど前の建治年間(1275頃)の創建といわれている。

近くには中世に栄えた本佐倉宿があって、神社はその宿はずれに位置する場所にあり、一の鳥居がある前の通りは、中世におけるこの地方の主要道路の一つ、本佐倉宿から大佐倉の浜宿河岸に至る「浜宿道」であった。

創建当時の規模については定かでないが、明治時代の記録によると神殿は間口奥行きともに1間半、拝殿は間口2間、奥行き5間と記されている。

 

また、この鎮守の社は古木・大木が繁茂しており、神社創建が古いことを物語っているといえる。ぜひ訪ねてほしい神社の一つです。

 

◎城下町エリアの稲荷神社

佐倉城下町の路地には今なお沢山のお稲荷さんを見ることができます。規模の大きな稲荷神社ではありませんが、城下町だったこともあって官有地にあるもの、そして個人屋敷・企業の敷地にあるものなど、それらを含めると相当数になると思われます。

  1. 古くは朝廷が、雨乞いや止雨とともに五穀豊穣を願うなど国の安穏を願う公の願い事に稲稲神を祀ったように、本来は穀物・農業の神だったが、時代が下ると商売繁盛、産業興隆、家内安全、心願成就・病気平癒・交通安全・厄除などの守護神として信仰を集めた。
  2. 徳川家康は天下統一の為に荼枳尼天(だきにてん)を信仰したとされ、関東に稲荷神社が多いのは、徳川家康が天下平定の恩に報いる為に、江戸周辺に多くの稲荷神社を寄進した為だともいわれている。
  3. 佐倉城下町の稲荷については、寛永19年(1642)、譜代大名で時の佐倉藩主堀田正盛が、城外家臣の曲輪(長屋)ごとに設置したとされる10社の稲荷神社が有名で、印旛郡史にも関連記事が記載されている。加えて、佐倉城下町に稲荷神社が多い理由として、商人の商い繁盛や、城下町全体が台地上のため水の確保が困難で、火伏せの願いとして稲荷を祀ったことなどが考えられる。


荼枳尼天(だきにてん)  
仏教の神で、一般に白狐に乗る女神の姿があらわされる。宝珠、稲束、鎌などを持ちモノとする
■印旛郡史

大正2年、当時の印旛郡役所によってつくられたもので、佐倉・成田・印旛郡・八千代・四街道の一部の、住民の生活の記録がつづられている。歴史・地理・産業・土地の状態・寺院・神社・名所旧跡・教育・宗教・風俗・鉄道・・・全てにわたり、写真や地図を使って詳細に記録されている。


長屋に建てられた稲荷神社(旧表示の所在場所と稲荷社の現状)

  ❶ 中尾余町字中尾余

❷ 最上町字七軒町(1)

❸ 最上町字七軒町(2)  (別名:一九稲荷)

❹ 裏新町字町組

❺ 裏新町字新長屋

❻ 宮小路町字味噌部屋

❼ 並木町字清兵衛長屋  (現在の呼称:高丘稲荷)

❽ 並木町字坂上新建

❾ 並木町字舟見町

❿ 並木町字古新建

  

◆⑦の清兵衛稲荷について

 1701~23年まで佐倉藩主だった稲葉正往・正知の家臣・渡辺善右衛門守由の書いた古今佐倉真佐子によると、稲葉氏が山城国淀に所替えになった時、その稲荷社を淀へ持参したとあるので、現在の稲荷神社はその後新たに勧請して祀ったものと考えられる。

 

■城下町にあるその他のお稲荷さん

■弥助稲荷について

 佐倉藩の下級武士であった弥助という侍は、忠節・誠実無比の人物で、殿様の信任厚く若殿の守役を仰せつかったが、これを好としない一派に命を狙われるようになった。ある日、踊り尾余にある我が家に帰る途中、日もとっぷり暮れた妙隆寺の裏の坂で、弥助は何者かに襲われ命を落とした。周辺の人はこれを哀れみ、弥助稲荷として祀ったという。現在祀られている場所は、旧表示の字踊尾余である。

 

■七右衛門稲荷について

佐倉城下の横町に染草屋という食べ物の品を売る店があった。七右衛門という人が店主の時、後ろの崖から湧き出る清水で酒をつくって売り出すとよく売れ、店も栄えたので町の為にいろいろ尽くした。その功績で殿様から褒美として土地を頂いたという。その土地に、防火の神様として稲荷神社を建て、初午の日などは盛大に祭りを行った。これを地域の人達は七右衛門稲荷と呼んだという伝承が残っている。その稲荷神社がある辺りは、以前の住居表示で、「字七右衛門稲荷」と呼んでいた。

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